『海に降る雪』〜永久秘話〜


 2000年・12月・鳥羽水族館・・・・・。
閉館時間はとっくに過ぎていた。
喧騒が遠のいた館内には、静寂という沈黙が満ちている。
ユラリ、ユラリ・・・と青い幻影が無機質なホ−ルに漂いはじめると、古参の飼育係でさえ苦しげな表情をつくり、息継ぎをしたい衝動に駆られるのだという。
ことさら不思議なことは何もない、ここにはただ『別の世界』が在るだけなのだ。
館に住まう者達は、人間の都合を刻む二つの針が縺れる様を、ただ冷ややかに見つめているだけである。
・・・・・・さながら博物館に並ぶ、化石でも眺めるように。

 なにものにも代え難い笑顔が男を迎えた。
いつものようにコ−ラルリ−フ水槽の前で、彼女は座っていた。
「ごめん、待たせたね」
小麦色の肌に艶やかな黒髪をまとった少女は、ものいいたげに足をぷらぷら動かすと、視線をぷいっとホ−ルのすみに投げた。
「待つのは、なれているもの」
男があわてて次の言葉を模索しはじめると、少女は焦れたようにピョンと立ち上がっていた。
「ねえ、今日は一緒に来てくれるの?」
心まで見透かすような瞳。
そのジャンパ−の裾を掴んだ腕には、{29}という数字がはっきりと書かれている。
「明日、行こう」
そう言って男は思いの丈を込めるように、少女の前に指を差し出す。
その意味を知ってか知らずか、少女は悪戯っぽく小指にキスをすると、満足そうに頷いた。
少女が近づくと、むせかえるような潮の香りが立ちこめる。
強い帰巣感に囚われ、男は軽い目眩を憶える。
ふと目をやると、わかっていたことだが、もうそこに少女の姿は無い。
名残を惜しむようにエントランスホ−ルを見渡した男は足早に立ち去り、後にはただ微かな笑い声と、館内に降り続く雪の幻影が残るばかりであった。

 さて、その日の朝も「中村元」は自宅のキッチンで、ヌカミソをかき回していた。
こうも芸術的にキュウリが漬かると、『人間の食べ物じゃないわ!』と罵られた傷も瞬時に癒されると言うものだ。
「・・・ったく、だいたい人間だからヌカ漬けにすんじゃないか。俺はコオロギじゃ無いっつ−の・・!」
なにやらぶつぶつ呟きながら取り出したキュウリを流しに置き、勢いよく蛇口をひねった。
だが奇妙な間をおき、しばらく苦しみに耐えた蛇口は、ツルリとナマコを産み落とす。
「この苦情を水道屋に言っていいものか・・・」
しばらく考え気を取り直した元は、先日通販で買った「お手軽温泉卵機」の蓋を開けた。
卵を慣れた手つきで小鉢に割ると、程良く茹であがったクラゲがまろび出る。
「浮気現場を見てみたいもんだな」
驚くまい!という決意も新たに咳払いをしてどっかと椅子に腰をかけるが・・・、ひろげた新聞から大量の塩水が膝の上に溢れると、「普通なら医者に行くべきなんだろうよ・・・」と、やっとこ現実を受け入れる気になった。
水浸しの床にすっくと立ち上がり、とりあえずヌカがついたままのキュウリを頬ばる。
「なんでもいいが、飯がないのは痛いじゃないか・・・」と顔をしかめたのは、炊飯ジャ−の中身である。
開けはしたものの、即座に蓋を閉め、『この事は忘れてやる』と決めたのだ。
「くそっ・・、また境界から浸食か!」
忌々しそうに吐き捨て、元は不機嫌この上ない様子でびしょ濡れの膝をはたいた。
・・と、一瞬してズボンは乾いた音をたて、テ−ブルには温泉卵、蛇口からは水が勢いよく流出ている。
そのまま部屋を出ようとして、ふと未練がましく炊飯ジャ−に目を留めたが、
「ふん、あんなだったもんが食えるか!」
とコ−トを鷲掴みにし家を出ていった。

 いつもより早く出勤した元がデスクに鞄を乗せると、企画室のスタッフは驚いて顔を見合わせていた。
「お早うございます!」
「ん、おはよう、今日の予定は?」
(・・いつもの朝はいつも通りにやって来るというのに・・)
元は羅列される予定をサクッと聞き流し、左脳で大きなため息をついた。
「んじゃ、ちょっと出かけてくる」
コ−トを持つと行き先を聞かれるので、
「館内にいるから〜」
と付け加え、不振そうに見送るスタッフ達を後目にそそくさと企画室を出ていく。
「寒いじゃないか!」
誰に文句を言うともなく、元は水族館の裏手までくると、底冷えのする防波堤を足早に歩き出した。
今日は珍しく刺すような北風はなく、どんよりとした空を映す海だけが冬の冷たさを物語っていた。
ザラリとしたコンクリ−トに一人きりの足音を響かせながら波打ち際の階段までたどり着く。
細心の注意を払い階段を下りると、水面に自分の顔を映すようにグイッと海面を覗き込むと、ポケットに突っ込んでいた手を嫌そうに出し、あきらめたように海水に浸した。
思ったほども冷たさを感じなかったのか、頬の筋肉をゆるめた刹那、乱反射を起こしていた海面がガラスのように海中の有り様を映し出した。
「お召し」
「うっ・・!!」
自分の顔が写っていた辺りに、いきなりヌッと魚のドアップである。
太刀魚を巨大化させたような長く薄ぺったな魚だ。
(コイツだけは何度見ても慣れんな・・・)元は心の中でのけぞりながら再び海中を覗き込む。
「ヌカ漬け、ですな」
「あん?」
その言葉に思い出したかのように手を引っ込めた元は、(魚のくせに!)と思いながらハンカチで丁寧に滴を拭き取り速攻でポケットに手を押し込んだ。
「んで、なんて言ってたわけ?」
「はっ、我々のあずかり知らぬ事、と申されておりましたよし」
魚は正面を向くと見えにくいのか、少々横向き加減で体をくゆらせている。
「そっか・・・、心当たりはないか。 それはそれでまた厄介な事だな」
「御意」
元は困ったな、と頭をかきかけたが手が冷たいので止めていた。
「ご苦労さん、ご主人様にEメ−ルはじめる気はないかきいといてよ」
お気楽な言葉に、魚にもしムッとした顔があるとすれば今がそうなのだろう。
「我々には我々のしきたりというものがございます故」
と、いつもより多めに鰭をパタパタさせた。
「気を悪くさせたらゴメンよ。別にお前の仕事を取り上げるつもりで言ったんじゃないんだから」
「御意」
「あそこからじゃ体もキツイと思ってさ。 目、出てるし・・・」
ようするに彼れはかなりの深海からあがってきたと言うことだ。
「おおっ、お恥ずかしいものを、此度は少々急ぎました故・・・」
今度はどうやら恥じ入っているようで、使者はギョロリッと目玉を動かした。
(まっ、いいか・・・)
「じゃ、よろしく伝えて」
「ははっ!」
元が立ち上がると、海面は又瞬時に冬の風に吹かれ採光が乱反射をはじめた。
使者は微かに頭を振り、長い背鰭をひいて帰っていく。
何のためにここに来たのか、そして帰る先には誰が待つのか、この中村元という男以外、誰も知る者は居ないのである。

 「うう〜っ、寒かった」
バイトの女の子に熱い緑茶を貰い、元は企画室のデスクで凍えた体を解凍していた。
顔をあげると、なにやら水越が怪しげな様子で箱を差し出したところである。
「来客用の和菓子、賞味期限が切れたんですが、食べます?」
「ん、もらおうか」
明日になったらこいつはただの生ゴミだ、地球の為、俺が犠牲になろう、と思ったかどうかは定かではないが、朝からキュウリ1本しか食べていなかった元は、スキップでもしかねない様子で饅頭を受け取った。
薄紙を外し、饅頭を二つに割り、割口を眺め、またくっつけて丁重に薄紙を巻き付ける・・・。
まるでビデオの巻き戻し状態である。
「どうしました、部長?」
「・・ん、なんでもない」
あからさまに何でもないわけなさそうな・・・と、水越は思った。
恨めしそうに饅頭を見る目が尋常ではないのだ。
この上司、いや・・この職場では、人間界で規格外のことがよく起こる。
水越がそれ以上突っ込んで聞かなかったのは、彼も又この水族館の人間だという証拠である。
だが、部長が会議で席を外した後、こっそり饅頭を割ってみたことは言うまでもない。
当たり前の黄身あんがつまった饅頭を見せられた彼は、またつまらなさそうに席に戻り、キ−ボ−ドを叩きはじめている。

 「雪、ですか?」
「ああ、最近になってもう何人も見ているらしい」
「館内に、ですよね」
「ああ、それもバイカルアザラシやラッコのゾ−ンというわけではないらしい」
・・・・・昼過ぎに元はB1にある副館長室に来ていた、と言うより逃げ込んでいた。
副館長室は二つの世界の境界線上におき、一番セキュリティ−が堅固なのである。
この浸食されない空間へ、元はたった一つの目的を持ってやって来た。
それは『弁当を食う!』ただそれだけである。
弁当の蓋に手をかけたまま話をする姿に哀れさを憶えたのか、副館長は「食べたらどうかね?」と勧めた。
「どうも」
しばらく元の食べっぷりを無表情に眺めていた副館長がふと席を立ち、もったくなくも隣室からお茶を運んできてくれた。
「申し訳ないです」
ペコリと頭を下げ、元は他のことを考えながらそのビ−カ−に入れられたお茶をすすった。
彼がどうやってお茶を入れているのか、あまり考えない方が良いのだ。
「で、ご研究の方はどうです?」
ダシ巻きを二つに割りながら元は切り出した。
「こういうことは日進月歩というわけにはいかんよ」
白髪混じりの頭を軽く振り学問の厳しさをアピ−ルした副館長だったが、目には『楽しくてたまらん!』・・・という本音がだた漏れであった。
「今回の件が厄介なのは、どこから浸食がはじまっているのか特定できない事なんです。 今日は一日館内を歩き回ることになりそうです」
最後に残った梅干しを名残惜しそうに口に入れる元。
「それが君の仕事なのだよ。 まっ、頑張りたまえ」
いったいそれがどんな仕事なのかは定かではない。
だがこの部屋の主が他人の仕事を評価する事など実に希なことなのだ。
「どうも」
すっかり空になった弁当箱をさげ、元は椅子をもとに戻した。
君は来ようおもえばいつだってココに来られるんだ、コ−ヒ−ぐらいいつでも調合してあげよう」
「あ、あ〜・・・ありがとうございます」
調合・・・。 果たしてその原料は何なのか・・・すでに彼の作ったほうじ茶が腹に収まっている今となっては、やはり仕方のないことだと元は思うのである。

 副館長室を出て、はたして何段あるか定かではない階段を上り、元は幾つかの扉をやり過ごした。
間違った扉を開けたことなど無いが、違う扉の先に何があるのかなどと知りたいとも思わない。
そうして毎回当たり前のようにこのドアの前に立ちドアノブを握るのは、自分の帰る場所はここしかないと知っているからなのだろう。
ドアノブが廻されると、まるでこの水族館全体が一つの生命体であるかのように、ドクンッ・・・!と大きな鼓動が脈を打つ。
静かに開け放たれる世界から急激に流れ込む光とノイズに元は目を細める、その瞬間彼が垣間見たものは、紛れもなく雪の幻影であった。
数秒のフラッシュバックが遠のくと、彼がたたずむメインストリ−トは、いつものように入館者達の賑わいで溢れていた。
午後に入ってどうやら人手が増えたようである、小降りながら雨が降ってきたせいだろう。
「こりゃ、本当に雪が降るかも・・・」
元は窓から見える真珠島のどんよりとした空を眺めた。
側ではカップルが自動販売機で熱いコ−ヒ−を買っている。
おねだりしたぬいぐるみを満足そうに抱く女の子がいる。
ガイドブックを持った初老の夫婦、子供のお守りで疲れ気味の若いお父さんとお母さん。
そう、ここは紛れもなくこの世界の日常が営まれているのだ。
極厚のアクリルという結界のもと、二つの世界が共存しあうのが水族館である。
そのもう一方の世界を統べる者が、今回のことはあずかり知らぬと言ったのだ。
これらの世界でもなく、あちらの世界でもない・・・・・と言う事は。
どこにも存在しないと言う事ではないのか?
もどかしさを振り払うように、元は微かな糸をたぐりはじめた。
暗闇に降り積もる雪の幻影、そこに見た少女の姿。
その華奢な腕には確かに{29}という数字が書かれ・・・・。
『・・・・雪・・そっか、雪は空にだけ降るとは限らないんだ』
はじかれたように顔をあげた元は、再びバックヤ−ドへと踵を返していた。

 今、元が居るのは、普通の裏である。
職員とすれ違いもするし、予備水槽や誰かが考案した不可思議な道具等が我が物顔のように転がっている、アノ裏である。
近道をしようと足早に通路を歩く先で、バックヤ−ドのアイドル、グリ−ンイグアナのイグちゃんが頭上の梁からキョロリッと見下ろした。
何歳までをアイドルというのか知らないが、彼女は相当な威厳を漂わせながら、元に尻尾を揺らして見せた。
「わりぃ、急いでるんだ。 とさかの脱皮なら飼育の女の子に頼んでくれぃ」
素っ気ない人間の態度に、アイドルにありがちな高ピ−さでイグちゃんはプイッと横を向く。
たぶん今日一日は十分機嫌が悪いだろうが、 まあ、それも人間が気づけば、の話なのだ・・・。
元は次に鉄の扉を開け、巨大なモ−タ−が回り続けている部屋を通り過ぎた。 
水族館の心臓とも言えるこれが停止することはあり得ない、何重にもセキュリティ−が施され、四六時中コンピュ−タ−で管理されているからだ。
一度巨大生命体として機能をはじめた水族館において、このシステム維持は必至の責務である。
しかし、実はこの心臓停止より怖れられているシステムダウンがある。
いわゆる(脳死)である。
だが、こちら側においても、あちら側においても、今そのシステムは、全て順調に作動しているようであった。
「へッ・・・クション!!」
・・・多少、些細なイレギュラ−はあったとしても。
元が立ち止まった部屋は、出入りする職員も少ないのか、少々空気が埃っぽいような気がした。
それを先入観と言ってしまえばそれまでだが、
「やっぱ好きになれんわ、この雰囲気・・・」と、以前は何某かであったものが整然と並べられた棚を見回した。
鳥羽水族館にも骨格標本や剥製、模型などが多数保管されている。
だがこれらが一般に展示されることはあまりない。
博物館の十八番を取り上げては申し訳ないし、だいいち『死体と一緒に展示するな』と他の展示水槽からプ−イングが起こることは必至なのである。
さて、元は手近にあった半透明のナイロンをめくってみた、スナメリの骨格標本である。
気は進まないが手当たり次第に確かめはじめる。
だが、元が求めるものの気配は何一つない。
だいたいあれほどの影響力を生み出す物があるならば、部屋に入ったとたん何かしら感じるはずである。
「ありゃりゃ・・・見込み違いか?」
落胆した様子で部屋を出ると、ウエットス−ツを抱えた若井嘉人と出くわした。
「どうしたんです、こんなところへ?」
若井は元がまたおかしな企画を目論んでいるのかと怪訝な表情を作った。
「ん、ちょっと探し物があってね・・・。 あれ、そういや若い君は昨日も、じゃなかったっけ?」
元の問いに若井は手にしたウエットス−ツに目をやり、
「ああ、浅野さんがお休みなんですよ」と、屈託無く笑った。
セレナが赤ちゃんを産んでから、ジュゴン・チ−ムは事実上不眠不休である。
だが1周り痩せた若井でさえ、頬の筋肉はゆるみっぱなしなのだ。
そんな彼らの笑顔を見るにつけ、彼らがジュゴンほどれだけ大切に思っているか、ひしひしと伝わってくる。
一礼をし、立ち去りかけた若井が思い出したかのように足を止めた。
「そう言えば浅野さんが骨格標本の持ち出し許可を貰ってましたよ」
元が標本室から出てきた事が気になったのか、それだけ言うと若きジュゴンチ−ムのエ−スは、スキップを踏むようにジュゴンプ−ルへ向かった。
「・・・・なるほど」
小さなもつぼれがスルリと解け、元の足下にポトリと落ちた瞬間であった。

 「わちゃ、今日はフルム−ンだった・・・」
窓から昇りはじめた月を目にし、元は舌打ちをしていた。
「なるほど、世間が騒がしいはずだわ・・・」
表から響いてくる雑踏に、やたら子供の泣き声が多いのは、子供の中にはまだ見える資質を残したものがいるからなのだ。
誰だって自分の横をでかい魚が我が物顔で泳いでいけば泣きたくもなる、ましてそれを親に説明しても、けして理解などしてもらえないのだから。
元来、太陽は地上、月は海のものである。
今夜はフル・ム−ン、地上が最も海に支配されやすくなる刻なのだ。
しかし、この時刻では館内にまだたくさんの入館者が残っているだろう、
『こんなおっかない時に水族館なんてよく来る気になるよなぁ・・。 まっ、ウチは安全だけどさっ・・』
元はなにやらぶつぶつ呟きながら、危うく忘れかけていたもう一つの約束を思い出した。
「ち・・遅刻ぐらいはおおめに見てくれるだろう・・・・たぶん」
自信なさげに頷き、何種類かの有効な言い訳を考えながら目指す飼育研究部の前にたどり着くと、又しても海より深いため息をつかねばならなかったのである。
飼育研究部だったところは、もはや大量の海水で満たされ一つの巨大水槽になり果てていた。
そこここに海の生物が蔓延りはじめ、ドアの隙間からはチョリと子カニが走り出てくる。
「やれやれ・・、やっぱり一番影響力大ってわけか」
元は子カニに向け一言、
「去れ!」と命じた。
言い終わるか終わらぬかで、カニの残像はそれっきりぷつりと途絶えた。
フジツボのこびりついたドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを手前に引く。
少しずつ開いていくドアの向こうは、アクリルという結界が無いにも関わらず、垂直に切り取られたままの海水が陸上の生き物をあざ笑うようにそびえていた。
その挑発になんの躊躇もなく元は歩を進める。
凍るような、そしてそれはまるで孤独感に苛まれるように冷たい海水であった。
「コ−トが必要だな・・・」
水中でコ−トをどうしようと言うのか定かではないが、彼は無理やり現実に引き戻すような言葉をはき、小魚が泳ぎ回り、ケルブが揺らめ海底を、至極当たり前だといいだげに歩いた。
部屋の中央で辺りを見渡した元の視線は、一つのデスクの引き出しに吸い寄せられていた。
近づこうとしてデスクの下からダイオオイカが腕が見えた刹那、それがよほど気にくわなかったのか、この海水より数倍冷たいと思える一瞥をそれにくれた。
・・・と、急速に世界が崩れ去りはじめる。
部屋に満たされていた海水は突如滝となり怒濤のように床に落下しはじめ、飛び散る巨大な飛沫に、そこにいたはずの生き物全てが一つ又一つと何処かへ葬り去られていった。
そして後には染み一つとして残らぬ床と、その真ん中にポツンと元が立っているばかりである。
「ああ、すっきりした」
気が済んだように「フン・・」と鼻を鳴らすと、元は浅野のデスクの前に立ち、引き出しに手をかけた。
あきらめたように開く引き出しの中から出てきたのは、{29}と整理番号が付けられた、『ステラ−ダイカイギュウ』の上肢骨であった。
「お前か・・・」と問う声に、
「すみません」と答えた声は、背後からであった。
「もう迷惑をおかけすることはないと思います」
そう言って浅野は元から少し視線をずらせると、
「おいで・・・」と、頷いた。
視界の角を小さな影が走りぬけ、元を怖れるように浅野の体に隠れたのは、紛れもなくアノ少女である。
人への恐れを痛切に感じる、それだけに浅野への信頼がただならぬものだと知れる。
『人魚を愛した男は、また人魚に愛されると言うことか・・・・』
元は心の中で、呻いた。
「うかつだったよ」
「何がです?」浅野は元の言葉をいぶかしげに聞き返した。
「職員の有能さを把握し切れていなかったってことさ」
「どうも、」悪びれる様子もなく浅野は応えた。
そして元は答えの分かり切った質問をするする自分に、ため息をつかなければならないのである。
「で、どうするつもりだ?」
不安そうに見上げる瞳をなだめる微笑み、むろん答えは言わずもがなであった。
悩み続けた上での即答であるのだから。
『それがどういうことなのか・・・、』と、言いたい衝動を飲み込んだ元は、あらためて少女に目を向けた。
こういった存在は人間のイメ−ジで作られる。
愛らしい瞳、そしてこのしなやかな肢体とすべらかな仕草はどうだ・・・、どれをとっても完璧ではないか。
こんな創造物を見せられれば、口出しする気など木っ端みじんにうち砕かれる。
彼女達ステラ−ダイカイギュウは、18世紀中頃人間に発見され、わずかその27年後に地球上から姿を消した。
無論、人間に狩り尽くされたのだ。
そんな記憶を持った彼女が浅野に向ける瞳がこれなのか・・・。
元は砂漠で一欠片のダイヤを探すような気持ちに駆られた。
だが、やはりそれとてやりきれない思いが胸の辺りで苦い味に変えてしまった。
「部長・・・・」
浅野の声にほんの少し躊躇の響きが混じる。
それが痛いほどわかる元には、もうこの言葉しか残されてはいなかった。
「行けよ、後のことは心配しなくていい」
これが全てのとまどいを断ち切る合図であったのか、浅野はもう元が指し示す扉だけを見た。
誰の手も借りず、静かにドアが開き始める。
海底に降るマリンスノ−、彼女の還るべき場所であり、これから二人が向かう場所である。
二度と開くことのない扉の向こうへ、しだいに二人の後ろ姿が消えていく。
『これで終わりか・・・』と、思った刹那、アノ少女が元を振り返った。
責めるように激しく、悲しい瞳、それが元の心に深々と氷の刃を突き立てた。
微動だにせず元の瞳はその視線を受け止める。
『そうさ、許されることなどあろうはずがない・・・・』
この視線を逃れることも、また忘れ去ることも、我々は断じてしてはならない。
未来永劫、生き物とはそう言ったものなのだから。
ドアが塞がれ全てが綴じられた後、元は肩を落とし深い深いため息をついていた。
「ここは水族館なのだ・・・」そうつぶやきながら。

 鳥羽海岸通に小さなショットバ−がある。
表の看板には灯りなど無く、店内から趣味のいい音楽と、微かな灯りがひっそりと漏れていた。
元がその店を訪れたのは、もう深夜に近い時間である。
急いで車を降り、「CLOSE」と札の下がった扉を躊躇無くあける。
月の明かりに浮かんだ店の名前は『カプリ』であった。
「いらっしゃい・・・」
元を迎え入れた女主人がそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
「ゴメン、地下鉄が雪で止まって・・・」
小さな喘ぎを聞きながら唇を放した元が、どこか真顔で言い訳をする。
黒いキャミソ−ルドレスの肩紐を手繰り、女がクスッ・・と笑った。
「はい、座布団をあげるから座ったら?」
「10枚たまらないとダメ?」
女は『何が?』とも聞かずに首をよこに振る。
「あなたは私が、私はあなたが見た夢の産物よ、あなたはそう願えばいい、ちがって?」
「そう・・・・だからこうしたい。 夜は短いから・・・・」
華奢な腰を思いきり引き寄せると、適度な抗いが心地よく腕にまといついてくる。
形ばかりの柔な肩紐を払いのけ、吸い付くような肌に唇を滑らせると、長い髪が波のように白い乳房の上で躍った。
「寂し、かったわ・・」
女が確かに意味のある言葉を漏らしたのはそれっきりだった。
彼女を抱くときは、いつもそれ以上に抱かれているという感覚に陥る、もっともっと大きく、そしてゆったりとした何かに。
店内に深い潮の香り満ちる、夜は短く、そしてこれからであった。

 翌日・・・・。
いつものように昼前に出勤した元は、いつものように今日の予定を聞き、いつものようにやらなければならない仕事と格闘していた。
内線が鳴り、横から気を回して伸びてきた手を押しとどめ受話器をとる。
案の定、相手は副館長からであった。
「職員は大事にしてくれよ。 ツ−ツ−ツ−・・・」まさに用件だけの電話が切れ、元は受話器を戻し後から
「はいはい」と了解の相づちをうった。
これで何事もなくいつもの生活が始まったというわけだ。
再び書類の束に顔を埋める瞬間、昨夜の記憶が微かによみがえった。
むろん、どの辺りの記憶かは定かではないが、機嫌は悪くないようだ。
昼過ぎ、メイン通路で浅野とすれ違い、ジュゴンの名付け公募の話や、他愛のない世間話をした。
今朝、B1から出勤してきた彼も、退社後は間違わず自分の家に帰るのだろう。
夕方になり、いつものようにまた標高を増す書類に目を通していると、
「うっそ−、信じられな〜い!」と、お茶をこぼしたアルバイトが黄色い悲鳴を上げた。
元はみょうに笑いながら
「信じろよ、ここは水族館だぜ」と、顔をあげると、アルバイトは一瞬きょとんとしたあと、すぐに
「そうですよね」と明るく笑い返した。

                                   「海に降る雪」 −END−